ラベル 笹本征男、封印された原爆報告書、米軍占領下の原爆調査、原爆文献を読む会、 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2014年1月5日日曜日

笹本征男君と原爆文献を読む会

昨年末、原爆文献を読む会のメンバーであった佐藤博史さんと鵜沼礼子さんが共著で一冊の書籍を自費出版された。画像は鵜沼礼子さんのパートナーの故栄さんの精緻な折り紙細工の作品。その書籍の挿絵に用いられている。読みたい方は直接著者へ。
巻頭の佐藤博史さんの「ヒロシマをめぐるいくつかの軌跡」には、彼が鵜沼さんに送った一通の手紙が引用され、笹本君と小生の名がCCとして記されている。この手紙が書かれた時には笹本君は酒を飲み健啖振りをしめしていたのだが、彼が世を去って間もなく4年の月日が過ぎようとしている。良き友を失う事は力を失う事に等しい。
2008年以来久し振りにお会いしたのだが、文献の会の事を調べている人が居るらしい事を伺った。
数年前に茨城から千葉県に引越しした際だと思うが、1969年から1976年までの例会案内の葉書94枚が、ひょっこり荷物の整理中に出て来て、スキャンしたデータとエクセルに入れた資料を、佐藤さんと鵜沼さんに御渡しした事が在った。私の手元には元々、佐原君が始めた「原爆小文庫」が増殖し、各地の被爆者の会の作成資料などが一千冊を越えて保管されていたのだが、2000年5月、当時の取手の自宅が降雹被害を受け、家屋の修繕費が100万円を越えたが、一番痛かったのが2階の自室の壁際に並んだ書棚が全て泥水を受け、その殆どを廃棄するしかなかった。小冊子の類はもう二度と手に入らないものも多かったのだが、余りにも大量に被害に遭ったので逆に救う余地が無かったのが残念だった。
尤も、書籍を保管する事が目的では無かったからそれはそれで諦めが付くのだが、それらの書籍を手に入れる過程の交流の記録が亡くなった事は残念だった。
原爆文献を読む会も歴史の一コマになってしまったらしい。

2013年4月25日木曜日

笹本征男君のこと (9) 詩集 いずも から

ほぼ同じ年齢で、山村と下請け孫請けの工業地帯のスラムとの相違はあるが、私には「ハックルベリーフィン」の物語はそれ程心に残って居なかった。中学の頃は図書委員の「役職」を悪用して読みたいと思った書籍を図書室に購入してもらっていたのに・・・
彼の病室でその話をしたら、「君は冒険に憧れなかったのか?」と聞かれた様に思う。
アセチレンガス灯は共通の思い出だ あのガスの臭いを知るものはもう少ないだろう
カーバイトを水と接触させアセチレンガスを取り出すともしびは、炭鉱でも使われた
あのほの暗い明かりでも、彼の思い出の中では耀いていたひとこまなのだろう


ハクルベリーフインの夜

夜の川
ヘミングウエイのミシシッピー河にいる
舟の上で燃えるアセチレンガス灯
川面が輝く

父が投網を投げる
手繰られる投網の中に鮎の銀色の体がおどる
船首にいるハックルベリーフィンの私
竹竿を川底に押しつける

網から鮎をはずし生け簀に入れる
夜が明けて樽に鮎が詰められ
塩をまぶされ魚市場に送られる

夏の夜の中で若い父とハックルベリーフィンがいる

2002年11月3日 この日、彼は一日の内に四編の詩を歌った。
土曜美術社出版販売 詩集 いずも ISBN4-8120-1509-X

2013年4月15日月曜日

笹本征男さんのこと (8) 詩集「いずも」から

笹本君のオヤジさんは発電所に務めていた事は聞いた事が在るが、どのような仕事をしていたのかは聞き漏らした。昔と言っても1997年だったと思うが、当時、笹本君の住むアパートと中島竜美さんのお宅の丁度中間地点あたりで大きな地下の工事が有って、私はその現場に良く通っていたのだが、ある日彼に声を掛けて、現場見学に誘った事が有る。現場には友人とは言わずに連れて行ったので本来はルール違反なのだが地下30数mの現場は文系の彼には正に驚きだった様で、確かその時に彼のオヤジさんが発電所に務めていた事を効いた様な気がする。
彼とは、運動の中でも不思議にウマが合う部分が在って、当初住んでいた清瀬まで泊り掛けで遊びに行ったりしたものだった。
そこで、今日は 「原風景」をご紹介する。


原風景

夕暮れにはまだ遠い時
私は三輪車に乗っている
母が後ろから押している
三歳の頃か

道は右に曲がっている
左には川と発電所がある

道の遠い先に帰ってくる父がいる様な気がする
人生での原風景のように記憶に残る

なぜ最初の風景と思うのか
わからない

東の出雲から西の父の故郷に
連れられて
帰ってきた 直後のことか

出典:土曜美術社出版販売  詩集 いずも
ISBN4-8120-1509-X



2013年4月13日土曜日

笹本征男さんのこと (7) 詩集 「いずも」から

笹本君は、決して文学者では無いし、私も同様に文学系の人間では無いので、彼の詩が文学的にどう評価を受けるのかは知らない。でも、この詩集が出版される前に、彼の病室からロビーに歩きながら、広告紙の裏側に書き綴った詩を私に読ませながら語りかける彼の目は本当に耀いて居た事は間違いない。
彼からこの詩の背景となった情景の話を聞いた事が有ったが(この葬儀の時は私はまだ笹本君と親しくなる前の事だった筈だ)、吾等の生きた時代はそんな時代だったのだと、それが良いとか悪いとかでは無くてそれが現実だったと言う事を否定出来ない時代だった。説明すべき事でも無いか!


母へのことば

行きたければ行けばいい!
母が叫ぶ

なぜ生母の生んだ兄に会いたいなどと言ったのか
東の出雲にいると言う血の繫がっただけの兄に・・・・・・・・・・
父の葬儀が裂かれる

生誕三十日から育ててくれた母に
何ということばか

四十年経っても
引きつった母の顔が浮かぶ
晩夏の故郷の空気が淀む


出典:土曜美術社出版販売 詩集 いずも
ISBN4-8120-1509-X

2013年4月12日金曜日

笹本征男さんのこと (6) 詩集「いずも」から

何故かこの処、恐らく初めての事だと思うけれど、笹本さんの事を記したブログにアクセスがまとまってやって来た。細かな事は判らないが、一週間ほどの間に二十数回のアクセスがあると何とかこの記事にアクセスが在る事が判るのです。

詩集 いずも は編まれたが、いかんせん流布された数は少ないと思うので、何か方法はないかと思って居たが、このブログも予想外に長い期間広告も無しに継続出来ているので、笹本君の何かに触れたい、何かを知りたいと思われた方々がこのブログの笹本君の項目に目を通す機会が在るのなら、此処で詩集の一つ一つを紹介してみようと思う。
まさか笹本君の詩を紹介しても著作権侵害で訴えられる事も無いだろう。
マア、その時は佐藤博史弁護士に御出馬を願う事にしよう。
地質のそれもかなりマニアックな枕状溶岩の露頭情報ブログに、彼の詩を掲載するとは!
笹本君 いいよね!

最初は2002年11月3日に書かれた ほとばしる叫びの最初の一片

   蝶

古びた伯父の雑貨店の三輪車の荷台の上
父の棺の傍に母と私が座る
二十歳の八月の終わり

揺れる道は私の小学校の通学路だ
父の遺体を焼きに行く

小学校の横の山の中腹に穴を掘っただけの火葬場がある
授業の時、遺体が何度かそこで焼かれ
強い臭いが漂った

三輪車は校門の坂道を上り
校庭で棺は下され、担がれて山の中腹に上がる

穴に置かれた棺
傍らにたたずむ母と私
棺に火がつけられる

父が結婚を世話した良人兄さんが棺の傍らに残る
眼前を舞う一羽の蝶

母と私は焼けていく棺を後にして自宅に帰る
眼下に校庭が見える


出典:土曜美術社出版販売:詩集 いずも
ISBN4-8120-1509-X




2011年6月21日火曜日

笹本征男さんのこと―封印された原爆報告書―5/5

最後に、笹本征男さんの詩集「いずも」から、私は、笹本さんほどには覚悟が出来ていないけれど彼の力強い詩をひとつご紹介してこの文を終えよう。



   奪う

   約1年前、私から右大腿部の股関節を奪った
   それから、1年後、胃を奪う
   次はどこを奪うのか
   右足が日々健康を取り戻し、
   杖の私と会った多くの友、親しい人々
   あの時間を奪うことはできない
   私とその人々の間に生まれた生の感覚を奪えない
   告知された外科診療室から、三階の病室に帰る時
   体の深いところから湧きあがったのは
   奪うことのできない時間のいとおしさだった

   この体の全て、腕、足、胸、指・・・・・
   生きている
   過ごしたあの精気に満ちた日々
   根源としての存在
   病室には、胃潰瘍と思って見舞ってくれた友がいた
   彼に最初に告げることができたことが、うれしい
   二階の待合室の長椅子で
   二人は外の景色を見ながら
   静かに、語った
   奪え
   奪え
   奪え
   しかし、奪えないものもある
   ガンよ              2003年8月15日午後5時20分 記

2011年6月20日月曜日

笹本征男さんのこと―封印された原爆報告書―4/5

画像は、原爆文献を読む会の会報表題。第1号のもの。但し、これは新たな参加者が増えて、会報を増刷する必要に迫られて新たに表示をデザインし直して印刷した時のもの。

笹本征男さんとの出会いは多分1969年。
当時「インテリ」と言われた人々に好んで読まれた週刊誌に「朝日ジャーナル」が存在した。その読者便り欄に投稿が有り、それが切っ掛けとなり「原爆文献を読む会」が生まれた。代表は呼び掛け人の長岡弘芳氏。当時は70年安保闘争も凄烈を極めた頃で、後に長岡氏の文学主義的狙いと、原爆被爆に関する文献を読んで感想を述べ合う事だけで良いのだろうか? と疑問を感じた人々が別の方向に歩み始めた為に、長岡氏は数年後に「原爆文献を読む会」を失意の中に去る。
長岡氏が去った後の原爆文献を読む会の精神的支柱の一人が中島竜美氏だった。笹本征男さんは自ら現代史を学びつつ、中島竜美さんの薫陶を得、世田谷に住む原爆被爆者の方々の生の声を聴くうちに「原爆調査」の問題点に気づき、日本人に対して封印された原爆報告書について調べ始めた。この頃から私と笹本征男氏は頻繁に行き来し酒を飲んでは語り合う様になっていった。
「原爆文献を読む会」は文学主義的な傾向から抜け出し、原爆被爆者と直接向き合う事を考えていた。「原水禁」や「原水協」と言った政党や宗教的なバックアップを持たない弱小組織だし、人数も限られていて、成し遂げた事は小さかったけれど高齢化する地域の被爆者組織と共に歩む事が出来たと考えている。その地道な活動が、笹本さんの「米軍占領下の原爆調査」として結実したとも言えるだろう。
退院したら、二人で温泉にでもつかりに行こうか! 等と話していた事は実現せぬままに消えた。中島竜美氏は、笹本さんが癌の治療の為に入院中に逝去された。中島さんとお会いしたのは笹本さんの詩集「いずも」の出版記念会の会場が最後となり、入院中の笹本さんが中島さんの訃報を知らせて下さった。

一見 戦争犯罪とは無縁と思える地質学の研究者が、いやおう無く戦争に協力させられる。ある時は占領地の韓半島や満州北部の地質調査と言う形で、また有る時は、国内零細炭鉱や鉱山の探鉱の為に!そしてまた在る時は、敗戦後であるにも係わらず、原子爆弾に被災した「非戦闘員」の被災状況を、放射線に被曝した戦災者の医療や、戦後の福祉に役立てる為ではなく、原子爆弾の開発者であり加害者である米軍に、彼らが開発し日本に投下した原子爆弾の「放射能の被害が如何に広範で長い年月に亘って効果が持続するか」と言う情報を提供する為に!
勿論、極少数の非戦の人々を除き、「非戦闘員」といえども、例えば詩集「いずも」の中の「撫順」と言う表題の元に述べられた彼の母のように、大政翼賛の流れに棹させず流され産業界も軍部の要請(命令)を受けて、軍事生産に盲従していた時代だから、単にその調査に従事した科学者を戦犯扱いし断罪しよう等と言う、狭い了見でこの文を記している訳ではない。渡辺武男氏については都城秋穂氏の自伝「都城の歩んだ道」2009年ISBN978-4-88713-932-9の201頁からに少し触れられているが残念ながらそのひととなりに触れるには短い文章だ。

少し、私自身について触れるならば、
北九州にまだ「北九州工業地帯」が存在し、公害の紫煙が「七色の煙たなびく所 九州」と言う観光ポスターのキャッチフレーズに成り得た頃、筑豊の炭鉱が次々に廃鉱となり、「黒い羽根」募金等が存在した頃に、「加久藤カルデラ」と出会った高校生の私は、当時東大に居られた竹内均氏に、このカルデラについて手紙で質問をし、竹内氏は偶々教室で会われた久野久先生に小生の質問を委ねたらしい。後日数回に亘って久野久先生からお手紙を頂きご教示を頂いた。
当時は安直なインターネット等は無く、日本火山学会の「火山Q&A」など存在しなかった時代である。
今年の幕張での連合大会では久野久先生の生誕100年を記念して、スペシャルセッションが開かれたと聞く。残念ながら久野久先生から頂いたスカイブルーのインクで記された数通のお手紙も手元に残っていないのだが、久野久先生が私の地質学への夢を今実現させて下さっている。

北九州工業地帯の零細企業の狭間で、企業倒産が続き、60年安保闘争の赤旗が激しく渦を巻くデモの隊列の中に、其処だけエアポケットの様に生気の無い、だらけた教師達の一群を見てしまった少年は、大人になったら労働者になる!そう思い続けて20歳で東京の片隅の工場に就職し、40数年間の労働者人生に区切りをつけて64歳で定年を迎えた。今尚 生活の為に働き続けてはいるが、何処まで働き続けていられるものか? 今は、仕事の合間に高校時代からの夢であった、地質三昧の日々を過ごす。笹本さんと同じく全力疾走をしても地質学の深淵に触れることは残念ながら出来そうもない。

2011年6月19日日曜日

笹本征男さんのこと―封印された原爆報告書―3/5

笹本征男さんには自著「封印された原爆報告書」の他に、占領軍に関係する翻訳書がある。2003年2月「占領軍の科学技術基礎づくり―占領下日本 1945~1952―」がそれだ。河出書房新社から(ISBN4-309-90524-2)出版されている。
 笹本さんはこの書籍の訳者あとがきに次のように記している。(部分)
「私がディーズ氏とお会いしたのは、1990年頃、御茶ノ水の中央大学80年館のロビーに於いてであった。中山茂先生の序文にあるように、その時は「戦後科学技術の社会史」の何人かのメンバーと共にインタビューのためにお会いしたのである。(中略)その頃から、私は中山先生や他のメンバーのもとで占領史を勉強し、その成果は「通史:日本の科学技術」(学陽書房)の中に何本かの論文として発表することができた。それから2年ほどたった1997年、ディーズ氏の本書が出版されたのである。そうしたある日、中山先生が「笹本君、ディースさんの本を訳して見ないか」と言われ、しばらくして先生から原書が送られてきた。原書の見返しにはディーズ氏の自筆で中山先生への献辞が書かれてあった。私は先生の言葉を喜んで受け、本書の翻訳を始めたのである。」
 戦後の、非戦の誓い新たな日本の未来を見据えた筈の「日本の科学技術の育成」を占領軍側からどのように見ていたのか?笹本さんにとっても実に興味深い作業であったに違いない。
 実は日の目を見なかったらしい翻訳の仕事も幾つか在った。題名は忘れたが米国本土から離れて海外に駐留する米軍軍人・軍属の性病罹患率が、基地毎に統計された資料などが多数含まれていた。
世界の警察を自認する米軍軍人・軍属の影の部分を扱った論文で確かアメリカで公表されていた論文だった。数表の部分を正確に翻訳書に転記する為に、小生が論文の数表部分をスキャンして、エクセルに取り込み彼の翻訳に張り付けていった。性を生業として生きざるを得なかった人々の数と、罹患した様々な性病の名が列記されていたのを記憶している。彼に分厚いガイドブックを渡して「エクセル」の使い方をトレーニングしていた事も懐かしい。
 戦後の科学技術は、少なくとも原子力に関してはこの「原爆調査」で明らかなように、占領軍に管理されるなかで本音と建前を使い分けながらスタートする。“ABCC”の発足、日本側窓口としての「予研」の存在、そして「放医研」は原子力産業がスタートを切ると共に1957年に開所する。
 その理念は「放射線と人々の健康に係る研究開発に取り組む国内唯一の研究機関」として、「人類は有史以来、様々な形で放射線と関わってきました。現在では、人々は医療をはじめとする様々な分野でその恩恵を受けることができるようになりましたが、その反面、放射能汚染や放射線被ばくによる環境や健康へのリスクが重要な課題となっています。人々が安全に放射線の恩恵を享受するためには、そのリスクに対する評価を常に行っていく努力が求められているのです。
独立行政法人放射線医学総合研究所(放医研)では、1957(昭和32)年の創立以来放射線と人々の健康に関わる総合的な研究開発に取り組む国内で唯一の研究機関として、放射線医学に関する科学技術水準の向上を目指して活動してきました。」と書かれている。

 大内久さん、篠原理人さんのお名前を御記憶だろうか?

 現在も含めて戦後の日本は「想定外」と言う言葉を実に豊富に使う。責任逃れの常套句である。原子力発電所の安全性については常に万全の設備を有していると言いながら、事故が起こると常に「想定外」のトラブルとする。東北太平洋沖地震の際の東京電力の発言も然り。
 大内久さんと篠原理人さんは1999年、住友金属の「想定外」によって、中性子を浴びて放射能障害で殺された。当時子会社のJOCに勤務しておられた。同じ作業をしていて被曝されたもう一人の作業員の横川さんはその後如何されておられるのだろうか?
 原子力施設で放射線を浴びた労働災害の時は、原則として千葉の「放医研」が通常受け入れ施設となる。JOC臨界事故の際も当初はこの「放医研」に救急車で運ばれた。福島原子力発電所にも、この研究施設の「研究者」が現在は常駐しているのではないだろうか?
 大内久さんは、篠原理人さんは、その人生の最後を東大病院で迎えられた。「放医研」は、医療施設ではなく研究機関であるらしい。原爆被爆者とは無縁な研究機関は、原子力発電の労働災害として被曝したお二人をも結果として治療も、見守る事も出来なかった。ABCCと同じか!
 この間の詳細についてはNHKが東大での献身的な医療物語として取材・番組化し、その後出版されている。現在は新潮社から文庫本も出版されているので、入手し易い。是非、ご一読をお勧めする。「朽ちていった命」-被爆治療83日間の記憶-NHK「東海村臨界事故」取材班ISBN978-4-10-129551-0

2011年6月18日土曜日

笹本征男さんのこと-封印された原爆報告書-2/5

その中で、渡部武男氏の名前を敢えて此処に引用するのは、東京大学総合研究博物館において2004年1月24日から4月24日の間  開催された特別展「石の記憶 -ヒロシマ・ナガサキー 被爆資料に注がれた科学者の目」の存在がある。内容は、博物館のHPで公開されている。画像はその展示についてのチラシの裏面である。
「原爆調査」の詳細については、此処で簡単に要約して述べ得るものでは無いので、笹本征男さんの「米軍占領下の原爆調査」を読んで頂きたい。ネットでも入手可能である。
この「原爆調査」に、地質学者が参画させられたのは、放射線の影響を正確に調べ、医学調査と照合する事により、被災者の被ばく線量を正確に把握し、その後の病状や後障害についての分析を行う為であって、原爆被爆者の医療を目的としてのものでは無かった。
「石の記憶」展示にはその会話の内容から多くの被爆者と共に広島・長崎ゆかりの方々も多く来ておられた。展示の中で一番の驚きは、渡辺武雄氏への「原爆調査団」への文部省の委嘱辞令が展示されている事だった。笹本君に連絡を取り辞令が展示されている事を伝え、彼はその後この辞令とともに展示内容を一刻も早くネットで公開をするように要請する行動を開始する。
勿論、渡辺武男氏以外の調査団メンバーもこの時点では既に判明していたのだが、「辞令」についてはこれまで資料として公開された事がなく、正確な(それが例え隠れ蓑だったとしても)命令関係が解明されては居なかったのである。その点でこの展示は、恐らく渡辺武男氏の遺志とは異なるものでは有ったと思われるが、原爆調査の詳細を正確に知ろうとするものにとっては実に貴重な機会であった。
渡部武男氏は当時の文部省の委嘱を受けて1945年9月、文部省の原子爆弾災害調査研究特別委員会(被爆調査団)・物理学化学地学科会 地学班班長として広島・長崎への調査に赴いた。当時東京帝国大学教授。調査報告書を恐らく自ら英文に翻訳し駐留軍に提出させられている。尚、物理学・化学・地学科会の分科会長は同じく東京大学教授の西川正治(物理学)が務めている。
渡辺武男氏は、科学者としての良心が被爆調査資料を破棄する事無く、何れ公開されるかも知れない可能性を知りつつも保存し続けたに違いないが、この件に関しては戦後一貫して終始黙して語らずにいたようだ。
それは、軍部・文部省の調査に対する説明・目的・大義名分と、調査に参加する中で次第に明らかになっていく調査の実態、「原爆調査」は、アメリカが投下した「原子爆弾」の殺傷兵器としての「効果・効用」を明らかにし、それを被爆者の健康を取り戻す為に使うのではなくまさに正反対で、日本国内では公表もせずに、直ちに英訳されて駐留軍、即ち原子爆弾を投下した米軍に提供した。医療調査も、治療の為の調査ではなく、「放射線の効果」を調査したが、原爆縛者の「治療」は全く行っていないのである。その事に気付いた渡部武男氏は戦後沈黙を守ったのであろうと想像する。
幸か不幸か、それを知らぬ弟子(?)は、「原爆調査の」非人間的内容を理解出来ずに、それがこれまで取り上げられる事のなかった、隠された素晴しい研究業績だと思い込んで、東京大学総合研究博物館で研究資料を公表したのであろう。その結果これまでに、私も笹本君もその写しさえも見た事が無かったその調査団団員に交付された「辞令」までも見る事が出来た。

2011年6月17日金曜日

笹本征男さんのこと-封印された原爆報告書-1/5

笹本征男さんの事を少し書いて置きたい。1969年頃からの永いお付き合いだったが、2010年3月20日に2週間ほどの短い治療入院の予定だったのに、入院のまま帰らぬ人となった。
2010年8月6日にNHKから放送された広島放送局制作の「封印された原爆報告書」。今年2011年6月24日,放送文化基金の「テレビドキュメンタリー番組部門本賞」を受賞する。また、日本科学技術ジャーナリスト協会から「科学技術ジャーナリスト大賞」を受賞している。この番組は、笹本征男さんの著書「米軍占領下の原爆調査」(ISBN4-915924-65-3:1995年)が基底にある。勿論、彼も今回受賞した番組制作にはアドバイザーとして参加していたが、残念ながらその完成を観ずに逝去された。
 画像は、確か彼が二度目の入院生活を過していた或る日。病院に見舞いに行った私に、広告の裏紙にぎっしりと書き込んだメモを手に握り締めて満面の笑みを浮かべて差し出したものが、立派な表装の詩集として刊行されたその表紙だ。ハックルベリーフインの詩を初めとして、なんだか「詩が溢れ出る様に湧き出すんだよ!」と言う。永い彼との交友の中で文学を語り合った事もあったけれど、彼の口から「詩」が流れ出した事は無かった様に思う。
 彼が病院で「前立腺癌」を宣告された時、更に1年後、胃を全摘せねばならないほどに胃癌が進行していた事が宣告された時、丁度 私が悪性リンパ腫の進行を宣告された時の様に、彼の脳裏を果たせなかった様々な願いや幼かった頃の思い出が、父親の働いていた水力発電所、高校時代の郷里の蟠竜湖や、地方競馬場で働いていた頃の母の姿等や、福岡での辛い思い出などが渦巻き、駆け巡ったに違いない。幸い、彼の素晴しい友人・知人のご努力で出版に至った事は嬉しい。
 そうとは知らずに最後と成ってしまった入院前のメールにはこの様に書かれていた。
「1月5日から7日まで、広島に行って来ました。今年の夏、NHKスペシャルで、私が追求してきた原爆調査を主題とする番組を、広島放送局で制作することが、正式に決まり、そのための打ち合わせでした。日本政府が原爆被爆者をアメリカに「売った」とも言える、原爆調査の問題を、NHKが取り上げることは、考えていませんでしたので、夢ではないか、と大げさに思うような心境です。デレクターが私の本に出会い、「目からうろこが落ちた」という経験をしたことが始まりです。そのデレクターは34,5歳です。時代が変ると思いがけない人が生まれ、思いがけないことが起きるものだと、思っています。番組が出来上がるまで、元気でいたいと思います。さて、最近、同じ、オリンパスのデジタルカメラを安く中古で買いました。1万2千円でした。このカメラの扱い方を教えてもらえたらと考えています。」
また、その後のメールでは
「前立腺がんが、尾てい骨に転移している影響で、でん部のしびれ感、足の痛みなどが出ています。新しい薬を飲み始めました。このような状態に付き合っていくしかありません。」と病状を伝えて来ていた。
 「僕はね、もう全力疾走で生き抜くしかないんだよ!」は渋谷駅附近の居酒屋で私と酒を飲み交わしながらの、思い出したようにフット彼の口から出る言葉だった。

何故、この様な個人的な思い出をこの地質系のブログに書くのか? 不思議に思われるだろう。
実はこの「原爆調査」には、その大多数が医学系の「日本帝国の英知」が集まって係ったのだが、その中には渡部武男氏と言う、当時東京大学理学部地質学教室教授が関係して居る事が判っている。勿論、地質学者が彼だけだった訳では無い。他にも京都大学や地質調査所の職員も含まれていた事が判っている。しかし、この「原爆調査」に関しては誰もが戦後沈黙を通した。