画像は、原爆文献を読む会の会報表題。第1号のもの。但し、これは新たな参加者が増えて、会報を増刷する必要に迫られて新たに表示をデザインし直して印刷した時のもの。
笹本征男さんとの出会いは多分1969年。
当時「インテリ」と言われた人々に好んで読まれた週刊誌に「朝日ジャーナル」が存在した。その読者便り欄に投稿が有り、それが切っ掛けとなり「原爆文献を読む会」が生まれた。代表は呼び掛け人の長岡弘芳氏。当時は70年安保闘争も凄烈を極めた頃で、後に長岡氏の文学主義的狙いと、原爆被爆に関する文献を読んで感想を述べ合う事だけで良いのだろうか? と疑問を感じた人々が別の方向に歩み始めた為に、長岡氏は数年後に「原爆文献を読む会」を失意の中に去る。
長岡氏が去った後の原爆文献を読む会の精神的支柱の一人が中島竜美氏だった。笹本征男さんは自ら現代史を学びつつ、中島竜美さんの薫陶を得、世田谷に住む原爆被爆者の方々の生の声を聴くうちに「原爆調査」の問題点に気づき、日本人に対して封印された原爆報告書について調べ始めた。この頃から私と笹本征男氏は頻繁に行き来し酒を飲んでは語り合う様になっていった。
「原爆文献を読む会」は文学主義的な傾向から抜け出し、原爆被爆者と直接向き合う事を考えていた。「原水禁」や「原水協」と言った政党や宗教的なバックアップを持たない弱小組織だし、人数も限られていて、成し遂げた事は小さかったけれど高齢化する地域の被爆者組織と共に歩む事が出来たと考えている。その地道な活動が、笹本さんの「米軍占領下の原爆調査」として結実したとも言えるだろう。
退院したら、二人で温泉にでもつかりに行こうか! 等と話していた事は実現せぬままに消えた。中島竜美氏は、笹本さんが癌の治療の為に入院中に逝去された。中島さんとお会いしたのは笹本さんの詩集「いずも」の出版記念会の会場が最後となり、入院中の笹本さんが中島さんの訃報を知らせて下さった。
一見 戦争犯罪とは無縁と思える地質学の研究者が、いやおう無く戦争に協力させられる。ある時は占領地の韓半島や満州北部の地質調査と言う形で、また有る時は、国内零細炭鉱や鉱山の探鉱の為に!そしてまた在る時は、敗戦後であるにも係わらず、原子爆弾に被災した「非戦闘員」の被災状況を、放射線に被曝した戦災者の医療や、戦後の福祉に役立てる為ではなく、原子爆弾の開発者であり加害者である米軍に、彼らが開発し日本に投下した原子爆弾の「放射能の被害が如何に広範で長い年月に亘って効果が持続するか」と言う情報を提供する為に!
勿論、極少数の非戦の人々を除き、「非戦闘員」といえども、例えば詩集「いずも」の中の「撫順」と言う表題の元に述べられた彼の母のように、大政翼賛の流れに棹させず流され産業界も軍部の要請(命令)を受けて、軍事生産に盲従していた時代だから、単にその調査に従事した科学者を戦犯扱いし断罪しよう等と言う、狭い了見でこの文を記している訳ではない。渡辺武男氏については都城秋穂氏の自伝「都城の歩んだ道」2009年ISBN978-4-88713-932-9の201頁からに少し触れられているが残念ながらそのひととなりに触れるには短い文章だ。
少し、私自身について触れるならば、
北九州にまだ「北九州工業地帯」が存在し、公害の紫煙が「七色の煙たなびく所 九州」と言う観光ポスターのキャッチフレーズに成り得た頃、筑豊の炭鉱が次々に廃鉱となり、「黒い羽根」募金等が存在した頃に、「加久藤カルデラ」と出会った高校生の私は、当時東大に居られた竹内均氏に、このカルデラについて手紙で質問をし、竹内氏は偶々教室で会われた久野久先生に小生の質問を委ねたらしい。後日数回に亘って久野久先生からお手紙を頂きご教示を頂いた。
当時は安直なインターネット等は無く、日本火山学会の「火山Q&A」など存在しなかった時代である。
今年の幕張での連合大会では久野久先生の生誕100年を記念して、スペシャルセッションが開かれたと聞く。残念ながら久野久先生から頂いたスカイブルーのインクで記された数通のお手紙も手元に残っていないのだが、久野久先生が私の地質学への夢を今実現させて下さっている。
北九州工業地帯の零細企業の狭間で、企業倒産が続き、60年安保闘争の赤旗が激しく渦を巻くデモの隊列の中に、其処だけエアポケットの様に生気の無い、だらけた教師達の一群を見てしまった少年は、大人になったら労働者になる!そう思い続けて20歳で東京の片隅の工場に就職し、40数年間の労働者人生に区切りをつけて64歳で定年を迎えた。今尚 生活の為に働き続けてはいるが、何処まで働き続けていられるものか? 今は、仕事の合間に高校時代からの夢であった、地質三昧の日々を過ごす。笹本さんと同じく全力疾走をしても地質学の深淵に触れることは残念ながら出来そうもない。
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