2011年6月25日土曜日

丹沢湖玄倉のピカピカの露頭_08

少し離れて岩体を左岸川から眺めた画像。ひとつの岩体をあっちやらこっちから眺めとくのは大した意味は無いが、経験が役に立つ事も無いわけでは無いので、延々と画像を紹介する。

露頭情報:No_080;秋田県由利原

残念ながら此処には枕状溶岩が広範囲に分布している事は判っているが、地下深くなので「露頭」では無い。従って観る事は出来ないが、分布領域は判明しているので一応記載した。論文としては石油技術協会誌第66巻「由利原油ガス田の玄武岩貯留岩」あるいは「矢島地域の地質」22頁 Ⅳ.5.青沢層 石脇SK-1 の地質概説 26頁 第6表 青沢層の玄武岩および同層を貫くドレライトの化学組成。由利原「油・ガス田」地下2000m附近の玄武岩質枕状溶岩とハイアロクラスタイトの分布領域をボーリングデータの詳細な分析によって明らかにしている。稲葉氏の有名な論文。中期中新世西黒沢期玄武岩。稲葉氏の論文を是非一読してみて下さい。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=391620&l=1400358
その他にも下記論文が参考に
「秋田-山形油田地帯の後期中新世-鮮新世火山岩の火山活動と貯留岩の形成」地質調査所月報 1999年
「リフト活動の変遷に伴うマグマ組成の変化 東北本州、前~中期中新世の秋田山形堆積盆地における例」岩石鉱物科学第30巻
「秋田県南部台島-西黒沢期における火山活動と変成作用 論旨」1986年

2011年6月24日金曜日

丹沢湖玄倉のピカピカの露頭_07

この画像は岩体の左岸側を真上から見たもの。注意不足で足が写っています。スミマセン!

露頭情報:No_079;室戸市佐喜浜

現在は残念ながら発行されていないが「土佐の自然」と言う冊子が高知県で発行されていた。県知事の交代で廃刊となったが旧版をネットで閲覧可能である。その第66号に「室戸の磯が語る地球の謎」と言う平朝彦氏の短文が有り、副題は「四万十帯の謎を解く,室戸沖南海トラフに挑戦,室戸の自然が人を育てる」などとある。
記事には「室戸市佐喜浜町立花地区 佐喜浜川左岸_河口付近:佐喜浜には海洋プレートによって運ばれて来た枕状溶岩が観察出来る。四万十帯は海洋底の玄武岩やチャートがと海溝に堆積した海底土石流堆積物が混合し、激しく変形して陸側に付け加わりそして隆起した」と書かれている。他に地質学会の講演論旨に「室戸半島火成活動帯に見いだされた海底火山下のマグマ溜まりの性質について」が参考となるだろうか?場所はこの附近と想定している
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=332445&l=1341149

露頭情報:No_078;徳島県牟岐町

露頭位置はこの附近を想定
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=333930&l=1342406
この附近には玄武岩の露頭が多く存在し、その成因に関しては議論も多い。 論文としては、直接この露頭を示すものではないが、「岩石鉱物科学」第29巻175-190頁の「四万十帯北帯に分布する現地性玄武岩の希土類元素組成とその起源に関する示唆」がある。他にも同じく「岩鉱」第93巻に3つの議論が掲載されている。
「徳島県南東部の四万十帯北帯に分布する沈み込み帯型緑色岩」
「MORB か沈み込み火成活動か 浅木・吉田論文への討論」
「MORB か沈み込み火成活動か 宮下・松尾への回答」
また、これに先立ち、1992年には地質学雑誌第98巻第9号に「上部白亜系牟岐累層(四国東部)中の“in-situ”緑色岩類の産状とその意義」が発表されている。何れも興味深く、また、無償でネット経由で入手可能なのでお勧めする。正直私には両方ともどちらが正しいのか?

露頭情報:NO_075;徳島県朝生郡

南寿宏さんの「四国内の火成岩の岩石学的研究とその教材化」と言う修士論文に多数の露頭情報が記載されているのですが、実は公開された情報が具体的では無いので正確な露頭の位置が判らない情報が沢山あります。データNo_004, 076, 077, 078, 123, 124, 296, 316, 328, 330, 等がその例です。教材化を目的とした論文ならばもう少し詳細を明らかにしても良いのではないかと、探していますが露頭情報は見付かりません。ご本人は室戸ジオパーク構想に関連してご活躍の様子なので、ジオパーク活動の中で明らかになっていくと嬉しいですね。処でこの露頭はこの附近かな?と思っています。川向こうの百合谷にも露頭が有る様です。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=334956&l=1342925

2011年6月23日木曜日

丹沢湖玄倉のピカピカの露頭_06

中央部分をラップさせて岩体の反対側

露頭情報:No_074;富良野町芦別岳山頂

北海道地質研究所公開の「山部地域の地質」20頁に「芦別岳輝緑凝灰岩」として記載があるが、発端は「東京大学大学院農学生命科学研究科付属科学の森教育研究センターHP」鴨田所長の自己紹介に「今年二度目の山行きの目的の一つは頂上の枕状溶岩を見る事でした。今夏地質調査に来られた高島礼詩博士に聞くまで枕状溶岩には全く気付かず・・・」
http://www.uf.a.u-tokyo.ac.jp/member/forest_functional_biology/kamoda.html
従って場所は下記
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=431408&l=1421700
この芦別岳の記事に露頭位置に関する記述がある。
http://morinotuti.web.fc2.com/07.06.17ASIBETUDAKE.html#tisitu
先の文中にある「高嶋礼詩」氏には、地質学雑誌第107巻第6号(2001)に「北海道夕張-芦別地域に分布する空知層群・蝦夷層群の層序と堆積環境(359-378頁)がある。芦別岳以外にもルートマップで、尻岸馬内川(ルート 1)、惣芦別川支流(ルート 3, 4)、芦別川支流(ルート 5)等に多くの枕状溶岩の分布記載有り。

露頭情報:No_073;京都市北区杉坂

基本情報は京都西北地域の地質:31-33頁に Ⅲ.3. Ⅱ型地層群 Ⅲ3.6.緑色岩類 B.雲ヶ畑ユニットとして、京都市北区杉坂口には2-3mの厚さの緑色岩があり,ハイアロクラスタイトと枕状溶岩からなる。その中に赤褐色の石灰岩の小レンズ( ~数cm)が点在している。と記載されている。場所はこの附近か?
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=350622&l=1354114
京都府レッドデータブックの下記露頭と同一と思われる。
http://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/soi0022.html
京都北部の露頭を巡った際この露頭にも立ち寄る予定で居たが京都北部の予想外の悪路の連続で回りきれなかった。

2011年6月22日水曜日

丹沢湖玄倉のピカピカの露頭_05

まずは、大きな岩体の向って左側の詳細。隙間無く「クローズドパック」と言われるタイプですね。僅かな隙間をガラス質の部分なのか火山灰なのかが間を埋めています。中には流れた様な模様が見える部分も有りますので、火山灰質・ハイアロクラスタイトなのでしょうか?

露頭情報:No_236;旧河野有料道路河野大橋下

福井県の優れた自然DB:河野海岸の枕状熔岩と凝灰角礫岩;抜粋引用;河野海岸有料道路に沿って,多量の緑色岩,頁岩が露出している.緑色岩は玄武岩や安山岩が変質したものでよく見ると,枕程度の丸みを帯びた扁平な球形物が重なったように見える部分がある.一方,近くには見事な凝灰角礫岩も発達する.なお,この地点の緑色岩に接した凝灰岩からは三畳紀型の放散虫化石が得られている.         
橋の南側に駐車スペースがある。北側も狭いが普通車なら止められるらしい。北側からの方が海岸に降り易いらしいが、南側からもそれなりの支度さえしていれば降りられない事もないと、海岸に居た方にお聞きした。
2010年1月25日から2月10日の間にこの附近の露頭画像をUPしています。参考文献は福井県緑のデータバンク「河野海岸の枕状溶岩と凝灰角礫岩」場所は下記。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=354841&l=1360437
福井と石川は興味深い露頭が多いですね。

露頭情報:072;尼御前トンネル附近

参考資料は「北陸の自然をたずねて」 18頁 敦賀 20頁:③,④ 河野海岸の緑色岩類 21頁 3-3図:河野海岸尼御前トンネル西方の枕状熔岩。No.236参照 & トンネル南の橋からも興味深い構造が観察出来る。
「北陸の自然をたずねて」の記事では、トンネルを南に抜けた辺り(海岸側に駐車スペース在り)を示しているようだが、駐車スペースに余裕が無くこの附近は確認する事が出来なかった。この尼午前トンネルの南側に見える海上橋附近までの海岸には枕状溶岩が分布している。
露頭情報:No_236:河野大橋下を参照下さい。
この場所は下記。但し、この道路は現在有料道路では無い筈だ。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=354902&l=1360426

2011年6月21日火曜日

露頭情報:No_071;国力鉱山跡

参考資料は「道東の自然を歩く」。このⅥ オホーツク海沿岸・白糠丘陵 3.北見~佐呂間 <白亜紀末~古第三紀の海山付加体>  ⑧海山で出来た鉄マンガン鉱床:国力鉱山跡 200~203頁:常呂のマンガン鉱 解説がある。日吉から6kmほど常呂より、目印は赤色チャートの露頭。含マンガン赤鉄鉱鉱床として鉄マンガンを採掘。その露頭東側に玄武岩質枕状熔岩があるらしい。常呂帯 仁頃層群、国力鉱山は附近でも最大規模を誇った.場所はハッキリしないがこの附近だろうか?
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=440117&l=1435855
参考文献としてはやや古いが地質調査所月報の第5巻第5号(1954年)に掲載された「北海道常呂郡含マンガン赤鉄鉱鉱床調査報告書」。例えばその17頁に、「常呂川流域にはしばしばその枕状溶岩岩床もみられ、慨し得て佐呂間別川流域よりも広く分布している。」と書かれている。

笹本征男さんのこと―封印された原爆報告書―5/5

最後に、笹本征男さんの詩集「いずも」から、私は、笹本さんほどには覚悟が出来ていないけれど彼の力強い詩をひとつご紹介してこの文を終えよう。



   奪う

   約1年前、私から右大腿部の股関節を奪った
   それから、1年後、胃を奪う
   次はどこを奪うのか
   右足が日々健康を取り戻し、
   杖の私と会った多くの友、親しい人々
   あの時間を奪うことはできない
   私とその人々の間に生まれた生の感覚を奪えない
   告知された外科診療室から、三階の病室に帰る時
   体の深いところから湧きあがったのは
   奪うことのできない時間のいとおしさだった

   この体の全て、腕、足、胸、指・・・・・
   生きている
   過ごしたあの精気に満ちた日々
   根源としての存在
   病室には、胃潰瘍と思って見舞ってくれた友がいた
   彼に最初に告げることができたことが、うれしい
   二階の待合室の長椅子で
   二人は外の景色を見ながら
   静かに、語った
   奪え
   奪え
   奪え
   しかし、奪えないものもある
   ガンよ              2003年8月15日午後5時20分 記

露頭情報:No_070;十和田市休屋

露頭情報ではあるが、現在は見る事が出来ない露頭である。出典は「青森の自然をたずねて」2-13頁を参照下さい。十和田神社の男坂が枕状溶岩だったらしいが、現在はコンクリートで固められているとの事。
この附近が現在の十和田湖よりも水位が高い湖水に覆われた時期の溶岩が枕状溶岩となったものか?、十和田カルデラが噴出する前の地層が残っていたのか?今では調べる事が出来ない。 従って、地図情報は省略。

丹沢湖玄倉のピカピカの露頭_04

まずは御馴染みのほぼ正面の姿です。

2011年6月20日月曜日

笹本征男さんのこと―封印された原爆報告書―4/5

画像は、原爆文献を読む会の会報表題。第1号のもの。但し、これは新たな参加者が増えて、会報を増刷する必要に迫られて新たに表示をデザインし直して印刷した時のもの。

笹本征男さんとの出会いは多分1969年。
当時「インテリ」と言われた人々に好んで読まれた週刊誌に「朝日ジャーナル」が存在した。その読者便り欄に投稿が有り、それが切っ掛けとなり「原爆文献を読む会」が生まれた。代表は呼び掛け人の長岡弘芳氏。当時は70年安保闘争も凄烈を極めた頃で、後に長岡氏の文学主義的狙いと、原爆被爆に関する文献を読んで感想を述べ合う事だけで良いのだろうか? と疑問を感じた人々が別の方向に歩み始めた為に、長岡氏は数年後に「原爆文献を読む会」を失意の中に去る。
長岡氏が去った後の原爆文献を読む会の精神的支柱の一人が中島竜美氏だった。笹本征男さんは自ら現代史を学びつつ、中島竜美さんの薫陶を得、世田谷に住む原爆被爆者の方々の生の声を聴くうちに「原爆調査」の問題点に気づき、日本人に対して封印された原爆報告書について調べ始めた。この頃から私と笹本征男氏は頻繁に行き来し酒を飲んでは語り合う様になっていった。
「原爆文献を読む会」は文学主義的な傾向から抜け出し、原爆被爆者と直接向き合う事を考えていた。「原水禁」や「原水協」と言った政党や宗教的なバックアップを持たない弱小組織だし、人数も限られていて、成し遂げた事は小さかったけれど高齢化する地域の被爆者組織と共に歩む事が出来たと考えている。その地道な活動が、笹本さんの「米軍占領下の原爆調査」として結実したとも言えるだろう。
退院したら、二人で温泉にでもつかりに行こうか! 等と話していた事は実現せぬままに消えた。中島竜美氏は、笹本さんが癌の治療の為に入院中に逝去された。中島さんとお会いしたのは笹本さんの詩集「いずも」の出版記念会の会場が最後となり、入院中の笹本さんが中島さんの訃報を知らせて下さった。

一見 戦争犯罪とは無縁と思える地質学の研究者が、いやおう無く戦争に協力させられる。ある時は占領地の韓半島や満州北部の地質調査と言う形で、また有る時は、国内零細炭鉱や鉱山の探鉱の為に!そしてまた在る時は、敗戦後であるにも係わらず、原子爆弾に被災した「非戦闘員」の被災状況を、放射線に被曝した戦災者の医療や、戦後の福祉に役立てる為ではなく、原子爆弾の開発者であり加害者である米軍に、彼らが開発し日本に投下した原子爆弾の「放射能の被害が如何に広範で長い年月に亘って効果が持続するか」と言う情報を提供する為に!
勿論、極少数の非戦の人々を除き、「非戦闘員」といえども、例えば詩集「いずも」の中の「撫順」と言う表題の元に述べられた彼の母のように、大政翼賛の流れに棹させず流され産業界も軍部の要請(命令)を受けて、軍事生産に盲従していた時代だから、単にその調査に従事した科学者を戦犯扱いし断罪しよう等と言う、狭い了見でこの文を記している訳ではない。渡辺武男氏については都城秋穂氏の自伝「都城の歩んだ道」2009年ISBN978-4-88713-932-9の201頁からに少し触れられているが残念ながらそのひととなりに触れるには短い文章だ。

少し、私自身について触れるならば、
北九州にまだ「北九州工業地帯」が存在し、公害の紫煙が「七色の煙たなびく所 九州」と言う観光ポスターのキャッチフレーズに成り得た頃、筑豊の炭鉱が次々に廃鉱となり、「黒い羽根」募金等が存在した頃に、「加久藤カルデラ」と出会った高校生の私は、当時東大に居られた竹内均氏に、このカルデラについて手紙で質問をし、竹内氏は偶々教室で会われた久野久先生に小生の質問を委ねたらしい。後日数回に亘って久野久先生からお手紙を頂きご教示を頂いた。
当時は安直なインターネット等は無く、日本火山学会の「火山Q&A」など存在しなかった時代である。
今年の幕張での連合大会では久野久先生の生誕100年を記念して、スペシャルセッションが開かれたと聞く。残念ながら久野久先生から頂いたスカイブルーのインクで記された数通のお手紙も手元に残っていないのだが、久野久先生が私の地質学への夢を今実現させて下さっている。

北九州工業地帯の零細企業の狭間で、企業倒産が続き、60年安保闘争の赤旗が激しく渦を巻くデモの隊列の中に、其処だけエアポケットの様に生気の無い、だらけた教師達の一群を見てしまった少年は、大人になったら労働者になる!そう思い続けて20歳で東京の片隅の工場に就職し、40数年間の労働者人生に区切りをつけて64歳で定年を迎えた。今尚 生活の為に働き続けてはいるが、何処まで働き続けていられるものか? 今は、仕事の合間に高校時代からの夢であった、地質三昧の日々を過ごす。笹本さんと同じく全力疾走をしても地質学の深淵に触れることは残念ながら出来そうもない。

丹沢湖玄倉のピカピカの露頭_03

露頭の手前から左岸の枝沢から流れ出した岩塊の様子を示す画像。こんなのがガラガラと土石流で流れてきたらひとたまりも無いので念の為。アクセスが容易い事と、安全性は必ずしも両立しない事を肝に銘じて欲しい。つぎの画像からは枕状溶岩の表面形状に入ります。

露頭情報:No_069;余市市忍路海岸

2011/7/23 以前F氏に頂いた画像が在ったのでUPした。
有名な露頭だが、一人では行かない方が良さそうな場所らしい。露頭観察も安全第一である。参考になるのは北理研の情報:
http://www.geocities.jp/hokurikenchigaku/junken/oshoro001.html
画面右上の「全景」をクリックすると崖の中に放射状節理のフィーダダイクらしいものも見える。正式には此処から入るのが礼儀か!但し、私のパソコンでは現在は文字化けで読めない:
http://www.geocities.jp/hokurikenchigaku/
北海道立教育研究所付属理科教育センター⇒北海道の地形と地質⇒車で行ける露頭めぐり⇒道央:札幌~余市周辺の画像と解説⇒忍路に枕状溶岩の画像が在る。
http://exp.ricen.hokkaido-c.ed.jp/tobira/htdocs/
http://www.ricen.hokkaido-c.ed.jp/340chigaku/sapporo/5gousenn/5gousenntop/5gousenntop.html
露頭情報を含む地図もあり、私の想定した下記の場所よりもかなりアクセスが良さそうだ。もっとアクセスの良い場所にも露頭が在るのだろうか?
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=431254&l=1405112

露頭情報:No_068;常呂町忠福林道

参考資料は「道東の自然を歩く」Ⅵ オホーツク海沿岸・白糠丘陵 3.北見~佐呂間 <白亜紀末~古第三紀の海山付加体> ⑨低温高圧タイプの変成鉱物をふくむ緑色岩(忠福林道は北見営林署の許可が必要)玄武岩質枕状溶岩・ハイアロクラスタイト・火山砕屑性堆積岩などが低温高圧型変成を受けている。場所はこの附近だろうか?
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=435825&l=1440213
この露頭についても、露頭情報No_066, 67 と同様「北海道常呂地方の枕状溶岩とスピライト化作用について」と「スピライト問題とその深成作用との関連」が資料。

2011年6月19日日曜日

笹本征男さんのこと―封印された原爆報告書―3/5

笹本征男さんには自著「封印された原爆報告書」の他に、占領軍に関係する翻訳書がある。2003年2月「占領軍の科学技術基礎づくり―占領下日本 1945~1952―」がそれだ。河出書房新社から(ISBN4-309-90524-2)出版されている。
 笹本さんはこの書籍の訳者あとがきに次のように記している。(部分)
「私がディーズ氏とお会いしたのは、1990年頃、御茶ノ水の中央大学80年館のロビーに於いてであった。中山茂先生の序文にあるように、その時は「戦後科学技術の社会史」の何人かのメンバーと共にインタビューのためにお会いしたのである。(中略)その頃から、私は中山先生や他のメンバーのもとで占領史を勉強し、その成果は「通史:日本の科学技術」(学陽書房)の中に何本かの論文として発表することができた。それから2年ほどたった1997年、ディーズ氏の本書が出版されたのである。そうしたある日、中山先生が「笹本君、ディースさんの本を訳して見ないか」と言われ、しばらくして先生から原書が送られてきた。原書の見返しにはディーズ氏の自筆で中山先生への献辞が書かれてあった。私は先生の言葉を喜んで受け、本書の翻訳を始めたのである。」
 戦後の、非戦の誓い新たな日本の未来を見据えた筈の「日本の科学技術の育成」を占領軍側からどのように見ていたのか?笹本さんにとっても実に興味深い作業であったに違いない。
 実は日の目を見なかったらしい翻訳の仕事も幾つか在った。題名は忘れたが米国本土から離れて海外に駐留する米軍軍人・軍属の性病罹患率が、基地毎に統計された資料などが多数含まれていた。
世界の警察を自認する米軍軍人・軍属の影の部分を扱った論文で確かアメリカで公表されていた論文だった。数表の部分を正確に翻訳書に転記する為に、小生が論文の数表部分をスキャンして、エクセルに取り込み彼の翻訳に張り付けていった。性を生業として生きざるを得なかった人々の数と、罹患した様々な性病の名が列記されていたのを記憶している。彼に分厚いガイドブックを渡して「エクセル」の使い方をトレーニングしていた事も懐かしい。
 戦後の科学技術は、少なくとも原子力に関してはこの「原爆調査」で明らかなように、占領軍に管理されるなかで本音と建前を使い分けながらスタートする。“ABCC”の発足、日本側窓口としての「予研」の存在、そして「放医研」は原子力産業がスタートを切ると共に1957年に開所する。
 その理念は「放射線と人々の健康に係る研究開発に取り組む国内唯一の研究機関」として、「人類は有史以来、様々な形で放射線と関わってきました。現在では、人々は医療をはじめとする様々な分野でその恩恵を受けることができるようになりましたが、その反面、放射能汚染や放射線被ばくによる環境や健康へのリスクが重要な課題となっています。人々が安全に放射線の恩恵を享受するためには、そのリスクに対する評価を常に行っていく努力が求められているのです。
独立行政法人放射線医学総合研究所(放医研)では、1957(昭和32)年の創立以来放射線と人々の健康に関わる総合的な研究開発に取り組む国内で唯一の研究機関として、放射線医学に関する科学技術水準の向上を目指して活動してきました。」と書かれている。

 大内久さん、篠原理人さんのお名前を御記憶だろうか?

 現在も含めて戦後の日本は「想定外」と言う言葉を実に豊富に使う。責任逃れの常套句である。原子力発電所の安全性については常に万全の設備を有していると言いながら、事故が起こると常に「想定外」のトラブルとする。東北太平洋沖地震の際の東京電力の発言も然り。
 大内久さんと篠原理人さんは1999年、住友金属の「想定外」によって、中性子を浴びて放射能障害で殺された。当時子会社のJOCに勤務しておられた。同じ作業をしていて被曝されたもう一人の作業員の横川さんはその後如何されておられるのだろうか?
 原子力施設で放射線を浴びた労働災害の時は、原則として千葉の「放医研」が通常受け入れ施設となる。JOC臨界事故の際も当初はこの「放医研」に救急車で運ばれた。福島原子力発電所にも、この研究施設の「研究者」が現在は常駐しているのではないだろうか?
 大内久さんは、篠原理人さんは、その人生の最後を東大病院で迎えられた。「放医研」は、医療施設ではなく研究機関であるらしい。原爆被爆者とは無縁な研究機関は、原子力発電の労働災害として被曝したお二人をも結果として治療も、見守る事も出来なかった。ABCCと同じか!
 この間の詳細についてはNHKが東大での献身的な医療物語として取材・番組化し、その後出版されている。現在は新潮社から文庫本も出版されているので、入手し易い。是非、ご一読をお勧めする。「朽ちていった命」-被爆治療83日間の記憶-NHK「東海村臨界事故」取材班ISBN978-4-10-129551-0

丹沢湖玄倉のピカピカの露頭_02

玄倉のビジターセンタから舗装された川沿いのゆっくりとした登り坂を行くと、やがてこの橋の袂に出る。右岸側でも左岸側でも好きな方を橋の袂から河床に降る事が出来る。右岸側は少し民家?の方に回り込む。後は、この河床を少し登りカーブを曲がると露頭が見える。くれぐれも雨が降りそうな時や降った時には辞めて置く事。鉄砲水で命を奪われますよ!
尚、上流左岸側の枝沢からの土石流は凄まじい勢いなので本当にくれぐれも注意する事!