2011年6月3日金曜日

山本作兵衛と森崎和江 まっくら

山本作兵衛さんの炭鉱絵巻と上野英信さんの事をブログに書いたら、1週間で50人以上の方々が訪問して下さいました。勿論、「世界記憶遺産」と言う単語にヒットしたものですが、1日平均100名の訪問者があるこのブログでは地震と火山に次いで多い訪問です。(残念ながら枕状溶岩の話題がトップアクセスでは在りません)
山本作兵衛さんの「筑豊炭鉱絵巻」は小生の蔵書となって居るものよりももっと高価な大判のものも発行されていますが、作兵衛さんの絵を使った森崎和江さんの小型の「まっくら」も今も手放せない書籍です。
正しくは「まっくら 女坑夫からの聞書き 森崎和江著山本作兵衛画」現代思潮社(0095-60122-1909)から1970年に出版されているこの本は森崎和江さんが女鉱夫からの聞書きを纏めたものです。 書籍は、2000年に雹災(この時は書籍の大半を泥だらけにされて失いました。)に遭ったので少し痛んでいますが大事にしています。作兵衛さんの絵が殆どはモノクロですが十数枚有ります。
筑豊の関係の書籍は自分の出自の証明みたいなもので、「みいけ20年資料編」等と言う表題の書籍や石牟礼道子さんや高橋たか子さん吉田優子さん等の書籍と共に書棚数段に今も並んでいます。北九州市の今は学校の校庭になってしまっている、元の零細鉄工所街にある本籍地をとうとう動かさないまま、関東に40数年を過してしまっい、間も無く66歳になろうとする時もこれらの書籍が一対で私の中に同居しています。

私の枕状溶岩 露頭情報について (1)

私の枕状溶岩の露頭情報について少しご案内したいと思います。何時から枕状溶岩の露頭情報を集め始めたか?もう忘れてしまいましたが恐らく2004年前後だと思います。キツイ闘病生活から生還し、余命3年と言われた期間を過ぎるかな?と思った頃に少し体力が回復してきて、もう少し生き続ける事が出来そうなので、高校時代からの夢だった地質の、特に火山関係の勉強をしてみたい、生きるか死ぬかと言う経験をした後なので年齢的にも今やらなければ老後のボケ老人を後悔しながら生きていく羽目になる。こうなったら突き詰めてやれる事をやってみたいと思い始め、久野久先生の「火山および火山岩」を読み返し、鴨川の枕状溶岩の露頭に出合い、これをやってみよう!と思ったのが始まりです。久野久先生は北九州に居た高校時代にお世話になっています。
私は研究者ではありませんし、地質について高校なり大学なりで学んだ事はないので、情報はまずインターネットで収集を始めました。集まった情報のメモを元に、偶々当時は茨城県の取手市に住んでいましたので、筑波の産総研・地質調査センターの「地質図ライブラリー」と「図書室」の両方に通ってみました。nkysdbをご存知でしょうか?産総研・地質調査センター職員のみやぎさんが作成した地質情報のデータベースですが、読む事が出来た論文等の巻末にある参照文献から原著を探し出し、産総研の図書室でチェックし、枕状溶岩についての記述があるとメモを取り複写して位置情報を読み取りました。1/5万の地質図は片っ端から目を通しました。チェックリストを造り、何時どの資質図をチェックしてどの頁に記載が有るか?中には読み落としたものもあるかも知れませんが、産総研で発行した1/5万地質図の殆ど全部に目を通しました。
現在、正確な露頭の位置が確定出来ないけれど、「この附近」には有るらしいと言うレベルの情報や、本当は枕状溶岩では無いのに、枕状溶岩が有ると言い張っているものなどの情報が650件集まっています。不確実な情報については折に触れてクロスチェック出来る資料を探し続けています。
そのデータを基に、比較的近い場所の露頭から歩いてみました。最初は全く判断が出来ない露頭が多くて困りましたが、段々と枕状溶岩の形状や色等の特徴が少し判って来た様な気がします。
兎に角、色々見なくちゃ判らないので写真を撮り帰宅後に拡大して眺めたりしました。ものは集めても分析も何も出来ないので、時々珍しいのを本当に小さい薄片1個を作れるかどうか?といったサイズのものを持ち帰る事がある程度です。基本的には採集は無し、写真だけです。昨年は山陰まで足を伸ばしました。長野や山梨・静岡も枕状溶岩が多い場所なので時々足を運びます。

2011年6月2日木曜日

枕状溶岩の岩壁:22

崖の上の方の画像ですね(見りゃ判る!)しかし大きな崖です。

2011年6月1日水曜日

枕状溶岩の岩壁:21

前の画像の一部分を少し拡大したものです。V字型に切れ込んだ谷の部分に枕状溶岩が流れこんでいます。同じ輪廻の噴火で生じたものでしょうが、大きさがかなり違うものがある様です。

2011年5月31日火曜日

枕状溶岩の岩壁:20

少し広い範囲の画像です。丹念に溶岩の噴出時期の境界を追っていけると興味深い事が有りそうですが中々難しいですね・

2011年5月30日月曜日

枕状溶岩の岩壁:19

部分的にはご案内しているけれどヤヤ広い範囲で夫々の位置関係が判るように範囲の広い画像がありました。
露頭情報の方は、このところ処理が追いつかないので後数日お休みして、その後はガンガン飛ばせるように(手を抜かないで)したいと考えています。少々、やりたい事が多すぎて自分の能力を超えてしまっています。申し訳ない!

2011年5月29日日曜日

山本作兵衛と上野英信:世界記憶資産に想う

故山本作兵衛氏の筑豊炭鉱絵巻がユネスコの「世界記憶遺産」に登録されると言う。上の画像は1973年に福岡の「葦書房」から発行された「筑豊炭鉱絵巻」(0071-7301-0135)の中の1枚をスキャンしてみたもの。この書籍が発行された1月の小生の税込みの賃金は手取り60,634円(税込み:81,766円)。これに対してこの絵巻の価格は4,500円だった。現在なら5万円以上に相当するだろうか?出版部数も少なかったので高価だったのだろうと思うが、15年ほど前に九州に帰る機会が数度続けてあり、田川や飯塚・大牟田等の石炭資料館等を巡り、これらの原画の迫力も感じる機会が有った。北九州の零細企業の連なる街に高校卒業まで住んでいたので筑豊は縁の深い場所であった。
世界記憶遺産等と言う制度がある事を、最近のこのニュースで知ったが出来れば山本作兵衛氏の絵巻のみならず、例えば故上野英信氏の「写真万葉集・筑豊」(全10巻)を含めて、上野氏の著作集やその他の多くの筑豊の記録を、出来れば何時でも閲覧出来るようにデジタルデータで保管して頂きたいものだと思う。
下の画像は、上野英信氏の「日本陥没期 地底に奪われた死者たち」(未来社:1973年)の口絵写真をスキャンしたものだ。上の画像は「三尺」と言われた薄い炭層を掘削する石炭工夫の姿だ。
下の画像は何を意味しているか?判るだろうか?1957年だと思うが長崎県の北松浦半島に存在した「中興江口炭鉱」で出水が有り29名の犠牲者が出た。その時真っ暗な構内で、カンテラの灯りを頼りに出来たか判らないが、26歳の岩橋さんが「ホゲ」と言う工具に恐らくツルハシかノミで書き残した「井料 西脇 ミヤコ ヒトシ フタリナカヨク タノム」である。人間を人間と思わぬ世界が(今も大して変わらぬが)ある事を、その中で一筋の光を求めて戦った炭鉱や北九州の零細企業・スラムの生活を何処かで記録し続けて欲しいと考えるのは無体だろうか?

枕状溶岩の岩壁:18

さてこれは一体何処だったろうか?と思うほどに壁面は広い。多才な枕状溶岩の画像をご覧下さい。