2014年5月10日土曜日

枕状溶岩:千葉県鋸南町下佐久間田子

実に数年振りにこの露頭を訪ねたのだが、この場所は、参考書にも掲載されているにも拘らず、露頭の状況が良くないので、殆ど来訪者が居ない露頭。小生のリストにも既に掲載済みだと思ったのだが、なんと何処にも記述が無いので、取り敢えず画像を掲載。
千葉県は鴨川や嶺岡に立派な露頭が多いのでひっそりと守られているらしい。
露頭が汚れているので、他の枕は中々判り難い。
この直ぐ近くに、ドレライトの露頭が在るのだが、民家の敷地の中なので注意。
目視で、ドレライトの針状斜長石結晶が確認出来るが、風化が激しく、ドレライトと言うより、タマネギ状風化の模式地(少し言い過ぎかな?)みたいな雰囲気だ!

2014年5月6日火曜日

石の百年館 JR稲田駅に併設で復活

稲田石の魅力を伝える「石の百年館」がJR水戸線(小山~水戸間)の稲田駅構内にリニューアルオープンしている。駅舎に隣接して以前のイメージを残しながら、ややコンパクトになったが、この様に2014年3月30日にオープンしていた。建物は国道50号からほんの少し入った場所で、駅舎の反対側に(正面左側)駐車場も設けられている。
下の画像はその展示の一部。日本国内の主要花崗岩山地の標本が貼られている。勿論、岡山の万成石も揃っています。5日に初めて訪問したが、国道にもう少し案内看板が欲しい処だが、意外と良く広報されているのか、頻繁に来館者が来られていました。
5月4日に、博物館の例年の行事で「石を割ってみよう」と言う体験会が開かれた。殆どの石は地学科の先生と我々ボランティアが平群川で集めて来た「千葉県産」石材なのだが、一つだけ例外で花崗岩の稲田石があったのだが、今年はこの稲田石が良く捌けた。
来年は花崗岩が要るね!と話していて閉館した「石の百年館」は惜しいよね!と言ったら、いやどうやら再開したらしい!それも今度は駅の傍らしいと聞いた。

5日は、石岡の街の古い街並みの中の石材(大谷石でも鹿沼や徳次郎付近のものらしい石材を用いた石蔵も多い)を観察に行ったのだが、茂木の街外れのお菓子屋さん「良い村」に行こうとしてこの話を思い出し、見学させて頂いた。
新設なった「石の百年館」や、小山を挟んで西側の両毛線岩舟駅傍の「日本一小さい岩舟石の資料館」の健闘を祈りたい!

2014年1月5日日曜日

笹本征男君と原爆文献を読む会

昨年末、原爆文献を読む会のメンバーであった佐藤博史さんと鵜沼礼子さんが共著で一冊の書籍を自費出版された。画像は鵜沼礼子さんのパートナーの故栄さんの精緻な折り紙細工の作品。その書籍の挿絵に用いられている。読みたい方は直接著者へ。
巻頭の佐藤博史さんの「ヒロシマをめぐるいくつかの軌跡」には、彼が鵜沼さんに送った一通の手紙が引用され、笹本君と小生の名がCCとして記されている。この手紙が書かれた時には笹本君は酒を飲み健啖振りをしめしていたのだが、彼が世を去って間もなく4年の月日が過ぎようとしている。良き友を失う事は力を失う事に等しい。
2008年以来久し振りにお会いしたのだが、文献の会の事を調べている人が居るらしい事を伺った。
数年前に茨城から千葉県に引越しした際だと思うが、1969年から1976年までの例会案内の葉書94枚が、ひょっこり荷物の整理中に出て来て、スキャンしたデータとエクセルに入れた資料を、佐藤さんと鵜沼さんに御渡しした事が在った。私の手元には元々、佐原君が始めた「原爆小文庫」が増殖し、各地の被爆者の会の作成資料などが一千冊を越えて保管されていたのだが、2000年5月、当時の取手の自宅が降雹被害を受け、家屋の修繕費が100万円を越えたが、一番痛かったのが2階の自室の壁際に並んだ書棚が全て泥水を受け、その殆どを廃棄するしかなかった。小冊子の類はもう二度と手に入らないものも多かったのだが、余りにも大量に被害に遭ったので逆に救う余地が無かったのが残念だった。
尤も、書籍を保管する事が目的では無かったからそれはそれで諦めが付くのだが、それらの書籍を手に入れる過程の交流の記録が亡くなった事は残念だった。
原爆文献を読む会も歴史の一コマになってしまったらしい。

橿原神宮水舎の枕状溶岩 (3)

枕状溶岩の形状的特徴を良く示すものが互いに面白い状態で組み合わさっている。石工の方々もこの様に組み合わせを考えながら素材をためつすがめつ眺めて組合せるのだろう。
柏原神宮の枕状溶岩画像はこれで終わり。

桜島と諏訪之瀬島の噴火活動もやや沈静化して来た雰囲気だ。
となるとこのブログを維持するネタをどうするか?早いとこデータを整理して手仕舞いとするか?
自己満足的に使命は果たした!等と自己宣言して消えて行くか?
2009年9月8日にスタートした枕状溶岩の露頭画像と位置や文献情報もまさかこんなに早く体力的限界が襲ってくるとは思ってもみなかったが、考えてみれば1999年には余命僅かと宣告されていたのが抗がん剤と放射線治療に耐えて退院に漕ぎ着け、更に余命3年の筈が13年も生き抜いているのだからそんなものかとも思う。友人の笹本征男君が世を去って間もなく4年になる。友を失う事は力を失う事だと強く思う。幸い地質分野では恵まれた環境で学び続ける事が出来ているがさて、考え処か?