このブログの更新を本日2015年12月4日を持って停止します。
2009年9月8日に2年程度を目途に開始したのですが、「枕状溶岩」の露頭が殆ど日本中に存在すると言う今では余りにも当たり前のことを御案内するという目的もそろそろ、無用の長物になりそうな気がしましたので、年齢を考えて撤退することに致しました。長期間、お付き合い頂き有難う御座いました。
まくら状熔岩の露頭
原則更新を停止します。 このブログは地質の素人の現70歳の素浪人が、地質図・論文・websiteを閲覧して露頭情報を収集し、その情報と主に足で稼いだ露頭画像を御紹介してきたブログです。素人故の恐れ知らずで取り組んでしまいましたが、残る人生の短さと現在の体力を歩き残した露頭の余りの多さとを天秤に掛けるとそろそろ「撤収」を考える時期だと思い至りました。 火山カメラの映像をUPしてまでこのブログを維持するのも如何かと思い至りましたので、このブログの更新を停止する事と致しました。 枕状溶岩関連記事についてはそのまま残そうと考えています。2年程度の心算で、2009年9月8日に始めたこのブログがここまで続けられるとは思って居ませんでした。 長い間お付き合い頂き有難う御座いました!
2015年12月4日金曜日
2015年7月25日土曜日
佐野の石灰石鉱山のズリから玄武岩
“久し振りの枕状溶岩ネタ”です!!或る調査の為に佐野市の石灰石層下部に有るらしい玄武岩を探しに出掛けた。足尾から佐野・出流付近の地質を20万シームレス地質図で見るとこの様に記載されている。この中でも渡瀬渓谷沿いの枕状溶岩はこのブログでもその画像を御紹介しているが、佐野・葛生・出流方面に関しては凝灰岩は在るけれど玄武岩は・・・と言う情報ばかりだった。でもこの様にチャートや石灰岩の東縁には淡い緑の(変)玄武岩が記載されている。
鍋山の周囲や出流の満願寺付近に狙いを付けて移動中に崖に少し丸みを帯びた枕状溶岩の様に見える露頭を見付けたが周囲はダンプカーが疾走する石灰石鉱山で勝手に敷地に入る事は出来ない。その露頭が含まれる様に思えた鉱山の事務所に取敢えずお願いをしてみようと交渉すると、その崖は別の鉱山だと判ったが、事情を説明するとそれらしい岩石が、役に立たないので(売れないので)ズリ置場には在るので観に行くなら案内すると言って下さったので是非にとお願いして鉱山の中に入らせて頂いた。
鉱山に迷惑を掛かられないので場所を特定出来る様な景色が入った画像は紹介出来ないが、標高200m程のその場所には赤茶色の凝灰岩(ハイアロクラスタイトか)の中の成分がレンズ状に引き伸ばされた状態の比較的割れやすい岩石と、正に緑色岩で少なくとも一つの面が緩やかな球面を構成する岩石が存在していた。250~300m付近の採掘現場は大型の重機が稼働中なので入れないが、成程20万シームレスでは石灰岩の領域に脈状に変成を受けた凝灰岩と玄武岩が脈状に(付加体として折り曲げられ剪断を受けて)あたかも貫入した様に存在しているようだった。
凝灰岩の中にレンズ状に引き伸ばされた岩塊が有るもの。
この後、観音入林道で層状石灰岩の露頭を観察、層状石灰岩から剪断を受けた岩塊が風化されずに突き出していたが、これは硬度が高い為では無く、石灰分が殆ど無い為に溶けなかっただけのボクボクの風化岩だった。出流の満願寺の入口付近でも緑色岩の(凝灰岩では無い)岩片は在るのだが、山の斜面の傾斜がきつ過ぎて露頭には辿り着けなかった。
何れ薄片を作って検証の予定。
2015年1月22日木曜日
枕状溶岩露頭情報のチョット嬉しい現状
ブログの表題とは異なり、最近は桜島を中心とした火山活動情報ばかりUPしていますが、これは最近枕状溶岩の露頭を歩く機会が無くなったので、ブログを維持する為だけに火山活動情報をUP
している訳です。
嬉しい事に、火山活動情報の閲覧は殆どありませんが、露頭情報の関係は結構コンスタントに閲覧して下さる方が増えています。このブログを足掛かりに、もっと進んだ情報に接して、調査に向われる方々が少しでも居られれば幸いです。
このブログも、広告も採用せず、無償のままで、2009年9月以来既に5年と4ヶ月が経過しています。
している訳です。
嬉しい事に、火山活動情報の閲覧は殆どありませんが、露頭情報の関係は結構コンスタントに閲覧して下さる方が増えています。このブログを足掛かりに、もっと進んだ情報に接して、調査に向われる方々が少しでも居られれば幸いです。
このブログも、広告も採用せず、無償のままで、2009年9月以来既に5年と4ヶ月が経過しています。
2014年5月10日土曜日
枕状溶岩:千葉県鋸南町下佐久間田子
実に数年振りにこの露頭を訪ねたのだが、この場所は、参考書にも掲載されているにも拘らず、露頭の状況が良くないので、殆ど来訪者が居ない露頭。小生のリストにも既に掲載済みだと思ったのだが、なんと何処にも記述が無いので、取り敢えず画像を掲載。
千葉県は鴨川や嶺岡に立派な露頭が多いのでひっそりと守られているらしい。露頭が汚れているので、他の枕は中々判り難い。
この直ぐ近くに、ドレライトの露頭が在るのだが、民家の敷地の中なので注意。
目視で、ドレライトの針状斜長石結晶が確認出来るが、風化が激しく、ドレライトと言うより、タマネギ状風化の模式地(少し言い過ぎかな?)みたいな雰囲気だ!
2014年5月6日火曜日
石の百年館 JR稲田駅に併設で復活
稲田石の魅力を伝える「石の百年館」がJR水戸線(小山~水戸間)の稲田駅構内にリニューアルオープンしている。駅舎に隣接して以前のイメージを残しながら、ややコンパクトになったが、この様に2014年3月30日にオープンしていた。建物は国道50号からほんの少し入った場所で、駅舎の反対側に(正面左側)駐車場も設けられている。
下の画像はその展示の一部。日本国内の主要花崗岩山地の標本が貼られている。勿論、岡山の万成石も揃っています。5日に初めて訪問したが、国道にもう少し案内看板が欲しい処だが、意外と良く広報されているのか、頻繁に来館者が来られていました。
5月4日に、博物館の例年の行事で「石を割ってみよう」と言う体験会が開かれた。殆どの石は地学科の先生と我々ボランティアが平群川で集めて来た「千葉県産」石材なのだが、一つだけ例外で花崗岩の稲田石があったのだが、今年はこの稲田石が良く捌けた。
来年は花崗岩が要るね!と話していて閉館した「石の百年館」は惜しいよね!と言ったら、いやどうやら再開したらしい!それも今度は駅の傍らしいと聞いた。5日は、石岡の街の古い街並みの中の石材(大谷石でも鹿沼や徳次郎付近のものらしい石材を用いた石蔵も多い)を観察に行ったのだが、茂木の街外れのお菓子屋さん「良い村」に行こうとしてこの話を思い出し、見学させて頂いた。
新設なった「石の百年館」や、小山を挟んで西側の両毛線岩舟駅傍の「日本一小さい岩舟石の資料館」の健闘を祈りたい!
2014年1月5日日曜日
笹本征男君と原爆文献を読む会
昨年末、原爆文献を読む会のメンバーであった佐藤博史さんと鵜沼礼子さんが共著で一冊の書籍を自費出版された。画像は鵜沼礼子さんのパートナーの故栄さんの精緻な折り紙細工の作品。その書籍の挿絵に用いられている。読みたい方は直接著者へ。
巻頭の佐藤博史さんの「ヒロシマをめぐるいくつかの軌跡」には、彼が鵜沼さんに送った一通の手紙が引用され、笹本君と小生の名がCCとして記されている。この手紙が書かれた時には笹本君は酒を飲み健啖振りをしめしていたのだが、彼が世を去って間もなく4年の月日が過ぎようとしている。良き友を失う事は力を失う事に等しい。
2008年以来久し振りにお会いしたのだが、文献の会の事を調べている人が居るらしい事を伺った。
数年前に茨城から千葉県に引越しした際だと思うが、1969年から1976年までの例会案内の葉書94枚が、ひょっこり荷物の整理中に出て来て、スキャンしたデータとエクセルに入れた資料を、佐藤さんと鵜沼さんに御渡しした事が在った。私の手元には元々、佐原君が始めた「原爆小文庫」が増殖し、各地の被爆者の会の作成資料などが一千冊を越えて保管されていたのだが、2000年5月、当時の取手の自宅が降雹被害を受け、家屋の修繕費が100万円を越えたが、一番痛かったのが2階の自室の壁際に並んだ書棚が全て泥水を受け、その殆どを廃棄するしかなかった。小冊子の類はもう二度と手に入らないものも多かったのだが、余りにも大量に被害に遭ったので逆に救う余地が無かったのが残念だった。
尤も、書籍を保管する事が目的では無かったからそれはそれで諦めが付くのだが、それらの書籍を手に入れる過程の交流の記録が亡くなった事は残念だった。
原爆文献を読む会も歴史の一コマになってしまったらしい。
巻頭の佐藤博史さんの「ヒロシマをめぐるいくつかの軌跡」には、彼が鵜沼さんに送った一通の手紙が引用され、笹本君と小生の名がCCとして記されている。この手紙が書かれた時には笹本君は酒を飲み健啖振りをしめしていたのだが、彼が世を去って間もなく4年の月日が過ぎようとしている。良き友を失う事は力を失う事に等しい。
2008年以来久し振りにお会いしたのだが、文献の会の事を調べている人が居るらしい事を伺った。
数年前に茨城から千葉県に引越しした際だと思うが、1969年から1976年までの例会案内の葉書94枚が、ひょっこり荷物の整理中に出て来て、スキャンしたデータとエクセルに入れた資料を、佐藤さんと鵜沼さんに御渡しした事が在った。私の手元には元々、佐原君が始めた「原爆小文庫」が増殖し、各地の被爆者の会の作成資料などが一千冊を越えて保管されていたのだが、2000年5月、当時の取手の自宅が降雹被害を受け、家屋の修繕費が100万円を越えたが、一番痛かったのが2階の自室の壁際に並んだ書棚が全て泥水を受け、その殆どを廃棄するしかなかった。小冊子の類はもう二度と手に入らないものも多かったのだが、余りにも大量に被害に遭ったので逆に救う余地が無かったのが残念だった。
尤も、書籍を保管する事が目的では無かったからそれはそれで諦めが付くのだが、それらの書籍を手に入れる過程の交流の記録が亡くなった事は残念だった。
原爆文献を読む会も歴史の一コマになってしまったらしい。
橿原神宮水舎の枕状溶岩 (3)
枕状溶岩の形状的特徴を良く示すものが互いに面白い状態で組み合わさっている。石工の方々もこの様に組み合わせを考えながら素材をためつすがめつ眺めて組合せるのだろう。
柏原神宮の枕状溶岩画像はこれで終わり。
柏原神宮の枕状溶岩画像はこれで終わり。
桜島と諏訪之瀬島の噴火活動もやや沈静化して来た雰囲気だ。
となるとこのブログを維持するネタをどうするか?早いとこデータを整理して手仕舞いとするか?
自己満足的に使命は果たした!等と自己宣言して消えて行くか?
2009年9月8日にスタートした枕状溶岩の露頭画像と位置や文献情報もまさかこんなに早く体力的限界が襲ってくるとは思ってもみなかったが、考えてみれば1999年には余命僅かと宣告されていたのが抗がん剤と放射線治療に耐えて退院に漕ぎ着け、更に余命3年の筈が13年も生き抜いているのだからそんなものかとも思う。友人の笹本征男君が世を去って間もなく4年になる。友を失う事は力を失う事だと強く思う。幸い地質分野では恵まれた環境で学び続ける事が出来ているがさて、考え処か?
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